江戸時代中期以降は「いれずみ」は刑罰の一部を指し、それ以外のものは「ほりもの」と呼ばれた。ただし、その由来は古代中国に存在した墨(ぼく)・黥(げい)と呼ばれた刑罰にまで遡る事が出来る(前漢の将軍・黥布は若い頃に顔に罰として入れ墨を施された事から逆に自ら名乗ったのだという)。
刑罰としての入れ墨は、顔など一見してわかる場所に施されたものも多いが、江戸時代には左腕の上腕部を一周する形で二、三本のライン(単色)を彫るものであった。(これは地域によって模様が違う。地方によっては額に入れ墨をし、「犬」という字をいれたところもあった。)これに対し「彫り物」は主に江戸火消し(鳶)が粋を見せるためや、漁民が出漁中に遭難死した場合の身元確認用に用いられていたようである。どちらも呼び名は異なるが、もちろん同じ刺青である。ただし入れ墨は刑罰として用いられたため、呼称として彫り物と呼ぶほうが好まれる。
江戸時代の浮世絵など文化的成熟を通して、装飾としての彫り物の技術も発展した。背中の広い面積を一枚の絵に見立て、水滸伝や武者絵など浮世絵の人物のほか、竜虎や桜花などの図柄も好まれた。額と呼ばれる、筋肉の流れに従って、それぞれ別の部位にある絵を繋げる日本独自のアイデアなど、多種多様で色彩豊かな彫り物が、江戸時代に完成した。
十九世紀に入るとその流行は極限に達し、博徒・火消し・鳶・飛脚など肌を露出する職業では、彫り物をしていなければむしろ恥であると見なされるほどになった。幕府はしばしば禁令を発し、厳重に取り締まったが、ほとんど効果は見られず、やがてその影響は武士階級にも波及していった。旗本や御家人の次男坊・三男坊や、浪人などの中にも、彫り物を施す者が現れるようになった。「遠山の金さん」で有名な遠山景元が彫り物を入れていたのは、恐らく事実である。しかし、それがドラマの中で見られるような、いわゆる「桜吹雪(桜吹雪を大きな額でつなぐ)」であったかどうかは定かではない。他に、桜一輪や骸骨、女の生首など、諸説ある。
また下総小見川の藩主内田正容などは、一万石の知行を持つれっきとした大名でありながら彫り物を入れていたと言われる。ただし正容の場合は、さすがに幕府も看過することはできなかったようで、後に不行跡を理由に隠居を命ぜられた。
そして明治時代になると、入れ墨のような野蛮なものは、文明開化に相応しくないとして、一層厳しく取り締まられることとなった。特に彫師は非合法な存在として、取り締まりを恐れて住居を転々と移した。しかし日本伝統刺青の噂は、外国船の船乗りを通して広く知られていたようで、英国王室の皇太子が来日の際、ある彫師を呼び出し彫らせた、という逸話も残っている。
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